それはナシだね

ばーちゃんが死ぬらしい。
近いうちに。
何日か前に朝電話があった。
黒い塊を吐いた、もう長くないぞ、と。
うちは核家族というやつで、じいちゃんばあちゃんと住んでません。
おとんもおかんも末っ子です。
おかんのお父さん(じいちゃん)はお母さんが中学生のときに亡くなったそうだ。
その話は小さいころから聞いてたけど、実際自分が中学生になったとき、父親が死ぬことを想像したらすごく悲しくなった。父親を亡くすことも辛いし、母子家庭になったら生活面での不安もある。そのとき、あぁお母さんは早くに自分のお父さんをなくしてかわいそうだなぁと思った。
母方のおばあちゃんは私が高1の冬に亡くなった。ガンだった。
父方のおじいちゃんは確か小学校3年くらいのときに亡くなった。
ギリギリ記憶があるくらい。でも死というものを実感はしてなかった。泣かなかった。
さすがに母方のおばあちゃんは高1だったし、祖父母の中では一番近い存在だったから悲しかった。
でも悲しんでるお母さんを見るほうが辛かったなぁ。
私は祖父母との縁が薄いように思う。(じいちゃんばあちゃん達には申し訳ないけど)
もう長くないといわれているおばあちゃんは、17年前にくも膜下出血で倒れて以来、寝たきりだった。意識もあるのかないのかわからない。意思疎通もできない。
17年前。私は4歳か。
物心ついたときから、おばあちゃんはベッドの上にいた。
『孫の○○だよ』とお父さんやおばさんが私をおばあちゃんに見せても、おばあちゃんはこっちを見ていることは見ているけど、話せないし、何もわからない。
おばあちゃんちに行くたび、正直怖かった。おばあちゃんにあいさつしていきなさい、って言われるのが。あいさつって言ったって、私だよ?って寝ているおばあちゃんに言っても本当に私の存在を理解してくれているのだろうか。
アルバムの中には赤ん坊の私を抱いているまだ元気なおばあちゃんがいた。
私が生まれたということを覚えているのだろうか。
介護しているおばさんが、『今日はおばあさん、あんたたちが来て嬉しそうだわ』と言ってくれると私たち親子は少しほっとできたのも事実だと思う。
尊厳死というものがニュースで話題になる時代です。おばあちゃんはこんなふうに生きていたかっただろうか、と考えずにはいられない。
私からすれば、ただそこに動いている心臓があるようにしか思えない。生きるってこんなことだろうか。別におばあちゃんに早く死んでほしいとかそんなんじゃない。否定しない。
ただ、ただ、ぽつんっと私の中にそう思う気持ちが存在するのです。
今のおばあちゃんと、死の間に、どんな差があるのだろう、と。
実際、私が最近考えてることです。
その気持ちを母に打ち明けたら、悲しそうな顔をされた。そんなこと言わないで、といった感じで。
でもね、お母さん。私、おばあちゃんがもうすぐ死んでしまうだろうといわれても、悲しくならない気がするの。お葬式で泣けないと思うんだ。あるとしたら、おばあちゃんがいなくなる悲しさではなく、死そのものに対する悲しさというか…不思議な感情しかないと思う。おばあちゃん不孝な孫でしょうか。非情かなぁ。
私にとっておばあちゃんはずっと寝ていた病人で、最初からいないようなもんなんじゃないかって、そう思っちゃうんだもん。人が本当に死ぬのは人の記憶から消えたときだ、っていう話も聞いたことある。そんなこと言ったら私の中におばあちゃんの記憶なんてないよ…。
そんな風に思ってるのに、身内だから無理やり悲しむような真似もしたくないよ。
でも、私が知らないだけなんだろうな。4歳まで私をかわいがってくれたんだろうから。
おばあちゃんも好きで病気になったわけじゃない。
まだ亡くなってないのに不謹慎な話を書いてしまったかな。でもちょっと覚悟しとかないと。きっとその時がきたら私はこの中途半端なやりきれない思いに混乱すると思うから。
最近、アメリカで尊厳死をめぐるニュースがあって、その尊厳死を求めていた(と思われる)女性が亡くなったと聞いた。尊厳死。この言葉はおばあちゃんを思い出させる。
難しいね。